誕生〜幼稚園時代

幼年時代
幼年時代
  • 1991年12月16日、群馬県前橋市生まれ。
    厳しい父に育てられた。父は、箸の持ち方、マナーなどに特に厳しく、小さい頃からよく叱られていた。今となっては良い思い出だ。
  • 寝る前に、母から絵本を読んでもらうのが大好きだった。お母さん子だった。
  • 三個下の弟がいて、よく喧嘩をした。
  • とにかく幼稚園の先生が好きだった。園長先生が、サンタクロースみたいで大好きで、慕っていた。
    幼稚園の友達であり、幼馴染みは、大人になっても大切な友達。
    幼馴染は、幼稚園の頃のことをよく覚えていて、「あの時、健太郎はこうだった」という思い出話を聞かせてくれる。幼稚園で、ウサギを飼っていてエサをやるのが大好きだった。
    時々、そのウサギが脱走して、追いかけて捕まえるのも楽しみなイベントだった。
  • とにかくよく食べる子だった。
    家族で初めて月島にもんじゃを食べに行ったとき、店員さんに「こんなにもんじゃを食べる子は初めてだ」と驚かれた。
    ディズニーランドではカレーを食べすぎて、帰りの車中で吐いて、家族からこっぴどく叱られた。

小学校時代

小学生時代
小学生時代
  • 小学校から高校までニックネームは「せきろー」だった。
  • 関口健太郎から「関」と「郎」を取ったからという説と、関口の「口」がカタカナの「ロ」に見えるからというという説があり、クライメイト間で物議を醸しだしたことがあった。
    当事者本人も、いまだにどちらが起源か知らない。
  • 小学校時代は水泳、サッカーをしていた。
    サッカーはあまり上達しなかった。ただ、たまに試合で点を入れれたときは、堪らなく嬉しかったのを覚えている。
    水泳はバタフライで泳ぐのが好きだった。
    友達と放課後に校庭で遊んだり、近くを流れる利根川で遊んだりしていた。
    利根川では、魚を捕まえたり、水切りをしていた。
  • ゲームは、スマッシュブラザーズ、ゴールデンアイ、カスタムロボ、ポケモンなどでよく遊んでいた。
  • 小学生の時、母方の祖父が亡くなり、とても落ち込んだ。
    学校では明るく振舞っていたが、担任の先生は無理していることに気づいていたという。
  • 音楽の授業が好きで、リコーダーが得意だった。楽譜は読めなかったが、一度聴いた曲はそのまま弾くことができた。
    歌うのも楽器も大好きだった。
    そのため、当時の将来の夢は音楽家だった。
  • 友達数名と「ピストル軍団」という劇団を立ち上げ、休み時間や放課後を利用して、脚本、構成、演出などを考え、練習し、クラスエイトの前で披露していた。
  • クラスのアンケートで、有名人になりそうなランキングで一位になった。
    しかし、その理由が「お笑い芸人になりそうだから」で落ち込んだ。
    他のランキング上位者は
    「俳優になりそうだから」
    「女優になりそうだから」
    だった。
  • 友達の苗字が変わったり、不登校になった友達がいたり、貧しい友達がいたり、子どもながらに色んな子どもがいることに思い悩んだ時期でもあった。
    「どうしたら、みんな幸せになれるんだろう」
    「どうしたら、不登校の子が学校に来てくれるだろう」
    そんなことを、良く考えていた。

中学時代

中学生時代
  • 地元の中学に進学し、ソフトテニス部に入部した。
    中学は荒れていた。
    卒業した先輩が、校庭にバイクで押し掛けたり、窓が割られたり。
    「尾崎豊」の歌詞の世界のようだった。
    生意気だったのか、先輩に目をつけられることもあった。
  • 反抗期に突入し、担任の先生や部活の先生とぶつかることも多かった。
    当時の先生方には、苦労をかけてしまったと申し訳なく思う。
  • 授業前の朝の練習、放課後、土日の練習などテニス漬けの毎日であった。
    努力はなかなか報われなかったが、なんとか三年時にはレギュラーを掴みとることができた。とても良い思い出である。しかし、三年の最後の試合の直前で足を痛めてしまい、テニスのペアだった「あっくん」に泣きながら謝ったのを覚えている。
  • 授業は社会科が好きだった。
    二年生の時に、勉強をさぼりすぎて、成績が急降下した。
  • 弟が野球を始めたので、キャッチボールに付き合ったり、プロ野球の中継を観たりしていた。
    プロ野球の知識は当時からアップデートされていない。
  • 好きな漫画はギャグ漫画で、「稲中卓球部」が大好きだった。
    好きな音楽は車の中で両親がよく流していた影響もあり「ミスチル」と「小田和正」。

高校時代

高校生時代
高校生時代
  • 高校は公立の男子校に通った。
    男子校と分かってはいたものの、入学式の日に全校生徒が学ランの男で驚愕した。
    校訓は「質実剛健」「堅忍持久」。今でも好きな言葉である。
    バンカラな校風ということもあり、男だらけの空間で、自由気ままに暮らす。
    二年生の時、応援部の演武に衝撃を受けた。雷に打たれたような衝撃であった。
    そして応援部が存続の危機で半年後に廃部になると聞いて、「自分がやらねば」と決意し、入部。
    先輩方から日々、引き継ぎや指導を頂いた。先輩方が卒業したあと、応援団長となった。
    部員が団長の自分ひとりになり、しばらく一人応援部であった。
    なんとか応援部を再建させなければならないと奮起した。
    友達に入部のお願いをしたり、下級生に宣伝に行ったり、校内に宣伝ポスターを貼ったりと活動をしていくうちに、仲間が集まり始めていた。
    最終的に、五人の部員が集まり、応援団を再建することができた。
    その後はインターハイ出場の部活や野球部の応援、ライバル高校との定期戦の応援など、応援の日々を送った。
    体力づくりや発声練習など日々練習に励んでいた。
    以降、応援部は何度か廃部の危機に陥りながらも、現在も存続している。
    応援部時代、勉強はそっちのけであった。
    それでも、政治経済の授業は好きで熱心に受け、ニュースや新聞などもよく見ていた。
    ある時テレビで「消えた年金問題」を特集していて、「今後のこと」、「老後のこと」、「これからの日本」について危機感を覚えた。
    その時、「消えた年金問題」を追求していたのが、のちに自分が秘書となる長妻昭さんだった。その当時から長妻昭さんは好きな政治家であり、尊敬する政治家である。
  • 「なぜ日本の政治は、『人のために』機能していないのか?」という大きな疑問を抱くようになったのもこの頃からである。
    金権政治、汚職政治、土建政治、弱者を見捨てる政治。
  • ある時、クラスの友達に自分の政治への熱意を話していたところ、「それならば、お前が政治を変えてくれ!!『人のため』の政治を実現しろ!!」と背中を押され、政治家を志すようになる。
    2009年、政権交代を目の当たりにし、胸が熱くなった。自分もその一翼を担いたいと志を強くした。

大学時代

大学時代
大学時代
  • 一年間の浪人生活は群馬の代々木ゼミナールにて送った。
    浪人をさせてくれた親には本当に感謝している。
    日々勉強の毎日だった。しかし、希望の大学に入学できず、大きな挫折を経験する。
    努力が必ずしも報われるわけでは無い。残酷であったが、この挫折は、人生の糧になったと思う。
  • 大学受験の直後に東日本大震災が起きた。
    地震が起きた時、入院していた母方の祖母の病室にいた。病室の医療器具や点滴が倒れそうになり、必死に抑えた。
    震災で多くの人が亡くなり、多くの人が被災し、多くの人の故郷や家族が失われた。
    あの時感じた遣る瀬無い気持ちは一生忘れることはない。
  • 大学入学直前、母方の祖母が亡くなった。
    幸い祖母が息を引き取る瞬間に立ち会うことができた。病室では、叔父さんと母がいて、泣き崩れていた。自分も涙が止まらなかった。
  • 進学のため東京に上京。杉並区高円寺北三丁目に住む。
    高円寺に決めた理由は、父親の「高円寺、楽しいよ!」「杉並、楽しいよ!」の一言だった。
  • 日本大学法学部に入学。
    大学に入学してからは、サークルにバイトにゼミに打ち込んだ生活であった。
    政治を学ぶため、「政治研究会」というサークルに入った。そして大好きなサイクリングをするため「サイクリングサークル」に入った。
    政治研究会は、歴史あるサークルで国会議員も輩出しているサークルであった。
    政治研究会の活動は真摯に打ち込んだ。定例の勉強会の参加や他大学とのディベートなど積極的に参加した。
    上級生となった際は、代表として、サークル運営を行った。
    代表として取り組んだことは、政治研究会に入ることの敷居を低くすることであった。「なるべく多くの学生にサークルに参加してもらいたい。」とサークル活動の見直しや新入生の勧誘など、とにかくがむしゃらに活動した。結果、前年度の二倍以上もの新入生が加入し、とってもにぎやかなサークルになった。
    学園祭では、枝野幸男さん、長妻昭さんにお越しいただき、講演をしていただいた。多くの方が集まり、大盛況だった。
  • サイクリングサークルでは、北海道や沖縄を自転車で旅行した。移動中のパンクやトラブルなど大変なことも多かったが、さっぱりとした気さくなメンバーが多かったので、とても楽しく自転車旅行をしていた。北海道、沖縄ともに、現地の方が優しく、すぐに打ち解け、食事をごちそうになったこともあった。
  • ゼミは「比較政治学」を専攻した。ゼミの岩崎正洋先生は、指導熱心で、大学時代の自分を鍛え上げてくれた師だった。
    専攻する学問はもちろんだが、岩崎先生は人間としても大きく成長させてくださった。
    ゼミでは、電子投票が行われている岡山県新見市への現地調査や各級選挙の出口調査、他大学との合同勉強会、日本政策フォーラムへの参加など、活発に活動していた。 特に四年時に取り組んだ「日本政策フォーラム」への参加は、自分にとって大変貴重な経験であった。政策の立案から発表まで任された。とにかく勉強し、とにかく考え、向き合った一年だった。
    その後取り組んだ卒論では、「世論調査で分析する民主党政権3年3か月」をテーマに選んだ。世論調査を参考に、民主党政権の失敗を分析した。卒論の執筆は骨を折る作業であったが提出期限のぎりぎりまで練り上げ、提出した。
  • アルバイトはたくさん経験した。
    大学入学当初は、新宿のルミネエストにある「ビタースイーツビュッフェ」というレストランでキッチンを担当した。いかに美味しく、いかに早く、いかに効率的に料理を作るかといったことを学んだ。バイトの仲間は、大学生、フリーター、シェフ見習い、芸術家と多種多様であった。店長からは「関口が言う『いらっしゃいませ~』は、焼き鳥屋みたいだ」と、よくからかわれた。
    日本武道館で開催されるライブの運搬スタッフなども経験した。かなりの重労働で、次の日は筋肉痛だった。深夜から朝方まで働き、ヘトヘトになりながらも、バイト終りに食べる立ち食いそばの味が格別だった。
    営業も経験してみたいと資生堂の化粧品販売やジレットのシェーバーの販売員などのアルバイトもした。ほとんど売れず、落ち込むことも多々あった。コツを掴むと、それなりに成績を出すことが出来て、大きな仕事を任せられることも増えた。それが嬉しかった。お客様と関わり、商品を勧めることの難しさ、購入してもらえることの嬉しさ、これらは人と関わる上でどうしたら良いかじっくり考えるいい経験になった。
  • 大学四年間は、親のもとを離れ一人暮らしだった。
    アルバイトをして、お金を稼ぐことの大変さを知ることもでき、自炊や洗濯など家のことをする中で、両親の偉大さを改めて感じた。
    大学三年時に、物件の契約期間が過ぎたので、引っ越しを考えたが、高円寺から離れたくない一心で、高円寺北三丁目から高円寺北四丁目に引っ越しをすることに決めた。
    この時から高円寺が大好きで、友達を高円寺に呼んでは、色んな飲食店や古着屋を紹介していた。

長妻昭事務所:大学生スタッフ時代

スタッフ時代
スタッフ時代
  • 高校時代に政治を志してから、「大学に入学したら、国会議員の事務所で生の政治に触れてみたい」と思っていた。
    「それならば!高校時代にテレビで観ていた長妻昭さんの下で勉強したい!」との想いで、長妻昭事務所の門を叩く。
    どこの馬の骨かもわからない、上京したての自分を受け入れてくださり、長妻昭事務所に入所。
    大学生スタッフとして、朝の街頭演説や地域回り、ポスター貼りや事務作業、国政報告会の運営などを担当した。
    長妻さんや先輩秘書から「政治とはなにか」と徹底的に指導頂いた。この時に、自分の中での政治哲学や、政治理念が形作られていったと思う。
    先輩秘書は後輩の育成に熱心な方が多く、沢山の試練を与えてくれたがそのおかげで本当に鍛えられた。東京の父や母、そして兄貴だと思っている。
  • 入所した当時は野田佳彦内閣時であったが、民主党の支持率、内閣支持率は危険水域に達していた。街頭演説では、罵声を浴びせられたり、唾を吐かれたり、配布しているチラシを破り捨てられたり、つらいことも経験してきた。この時の経験は一生忘れることはないと思う。
  • 2012年12月16日。自分の21歳の誕生日に、第46回衆議院議員総選挙を迎えた。政権交代した民主党が、再び自民党に政権を奪取された選挙であった。この時の選挙は逆風で、つらく、苦しい選挙であった。そこに冬の寒さも合わさって、大変な選挙だった。そんな中でも、多くの方の支援のおかげで、長妻昭さんは再選を果たした。
  • その後、野党に転落するが、ぶれずに活動を続ける長妻さんを見て、「この人は信念の人だ」と圧倒された。
  • 2014年12月14日。学生スタッフとして二回目の衆院選、第47回衆議院議員総選挙を迎えた。この頃になると、2012年当時の逆風こそ無かったが、民主党に対しての無関心を感じる選挙であった。この選挙でも、長妻さんは議席を頂く。2014年の総選挙では民主党の中で、東京都の小選挙区で議席を獲得したのは長妻昭さんのみであった。長妻軍団として、誇らしくもあった。
  • 大学三年時は就職活動を考える時期であった。政治の道に進みたいとの意志は固かった。多くの方から、「民間の感覚を勉強するため、民間企業へ進んだ方が良い」とアドバイスを受けたが、私は「民間の感覚を学ぶため、民間企業に進むのは、非常に失礼なこと」だと考えた。そして、なによりも、自分のやりたいこと、目指す道へ進みたいと感じた。長妻さんと二人で居酒屋へ行った際に、「秘書になってほしい」と熱い想いを頂き、長妻さんの秘書になる決意を固めた。

長妻昭事務所:秘書時代

秘書時代
秘書時代
  • 大学を卒業し、長妻昭衆議院議員の秘書となった。
  • 杉並や高円寺から離れたくないとの想いから、住まいは引き続き、杉並区高円寺に構えた。
  • 学生時代からお世話になった長妻事務所であったが、秘書として今まで以上に責任を伴う立場になった。
    長妻さんや長妻事務所の先輩秘書や支援者の皆さんには、時には厳しく、優しくご指導をいただいた。このことは、かけがえのない経験だし、自分自身の身になった。
  • 秘書として勤務し、すぐに、統一地方選挙が開催された。そして、学生時代にお世話になった先輩秘書の皆さんが区議会議員選挙に挑戦したのも、私にとって記憶に強く残っている。
    当選した先輩もいれば、落選された先輩もいた。選挙の残酷さを感じたときでもあった。
  • その後、すぐに小川敏夫参議院議員の選挙に入ったことも大きな糧となった。東京選挙区は六議席。そのうち、民進党が二議席(もう一議席は蓮舫参議院議員)を獲得できるかどうかは大きな瀬戸際であった。各党がしのぎを削る選挙の中で、中核で選挙に関わり、熾烈な選挙戦を経験する。市民の皆さんが連日応援に来てくださり、徐々に選挙が盛り上がっていき、市民と政治が一体になる様は忘れることはない。そして多くの仲間と出会ったのもこの選挙であった。
  • 働くにつれて、区民税は納めているが、「なかなか恩恵を受けていないなぁ」と感じ始める。我々の「働く若者世代」が区政と結びついていかなければ、と意識をするようになった。
  • 戦争の悲惨さを生で感じなければと、休みを利用して、沖縄へ出かけたこともあった。沖縄では、旧海軍司令壕、ひめゆりの塔・資料館、平和祈念公園、対馬丸記念館を見学した。地上戦で住民を巻き込んだ痛ましい過去があり、そのことをどこの施設を訪れても意識させられた。特に記憶が鮮明に残っているのは、ひめゆりの塔・資料館で、お亡くなりになられたひめゆり学徒と教師の227名の遺影の展示である。本当に胸が詰まる思いだった。二度とこのような惨禍をおこしてはならないと強く心に誓った。
  • 先輩秘書と仕事帰りにときどき飲みに行くのも楽しみのひとつだった。安くて美味しい居酒屋さんを見つけては足を運んでいた。飲みすぎて次の日が辛いこともあった。お酒はほどほどに。
  • カレーが大好きなので、選挙区内のカレー屋さんへもよく通った。カレー専門店ではないが、喫茶店やお蕎麦屋さんや中華屋さんで美味しいカレーを発見した時の喜びは格別であった。
  • 2017年の東京都議会選挙は都民ファーストが圧勝し、民進党は大苦戦であった。この選挙で、リベラルの危機を感じた。「今だからこそ、リベラルを支えなければならない!」と必死だった。
  • 都議選を終えたのちに入籍。結婚記念日は7月16日で「なないろ」の日。「色んなバックグラウンドの人が、それぞれ輝けるように」と願いを込めて、虹色の「なないろ」とかけて7月16日に入籍した。
    結婚と同時に、お金の使い方も改めなければと、節約に勤しんだ。妻がお弁当を作ってくれ、お昼にはそれを食べていた。出先の際は、公園のベンチで食べた。真冬は本当につらかった。
  • そして迎えた2017年10月22日第48回衆議院総選挙。突然の解散から、民進党と希望の党の合流話、立憲民主党の誕生。本当に目まぐるしく環境が変化する中での総選挙は熾烈なものであった。政局が混乱する中、枝野幸男衆議院議員の立憲民主党結党会見を見て、「リベラルの旗が立った!」と胸が熱くなった。長妻さんも立憲民主党に参加し、「必ず勝ち上がらなければ!」と燃えに燃えていた。多くのご声援とご支援をいただき、長妻さんは再度議席をいただいた。
  • 結婚を期に、引っ越しを考えたが、それでも住み続けたいと思ったのは杉並だった。そして、自分たちの未来のことや、今後生まれてくる子どものことを考えるようになった。未来は明るいと信じたいが、もちろん色んな不安もある。
    私たちが生きる十年後、二十年後、社会はどうなっているのだろうか。僕らが住んでいる杉並はどんなカタチをしているのか。これから生まれてくる子どもたちは、どんな社会を生きるのか。そんなことを考えていくうちに、今後もずっと住み続けていきたい杉並のために、不安を抱える人たちのために、汗をかきたい。素直にそう思った。 その想いを、政治の師である長妻さんにぶつけた。「関ちゃん、応援するよ!」と背中を押していただいた。涙が出るほど嬉しかった。